陸奥國盛岡藩分限帳 オファー 江戸後期

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【書名】 陸奥國盛岡藩分限帳【巻冊】 半紙判三ッ切一册【著者】 【成立】 江戸末期頃
★ 下級武士の分限帳・三〇丁★ 弐人扶持の平塚検校に盛岡藩主の「南部美濃守御家計醫」とある。★ 南部美濃守=南部利剛(なんぶ としひさ)は、江戸時代後期の大名。陸奥国盛岡藩の第15代藩主。官位は従四位下・美濃守、侍従。★ 嘉永2年(1849年)9月26日、実兄である先代・利義の隠居より家督を相続した。利義の隠居は、父・利済との対立のためであった。同年10月15日、12代将軍・徳川家慶に御目見する。同年12月16日、従四位下・美濃守に叙任する。嘉永4年12月16日(1852年)、侍従に任官する。文久元年12月16日(1862年)、左少将に任官する。元治元年(1864年)4月18日、中将に任官する。利剛の家督相続に対しては反対が根強く、嘉永6年(1853年)の第2次三閉伊一揆では利義の復帰および帰国が一揆側の要求の一つであった。この要求は退けられ、その後も藩主は利剛のままであった。安政元年(1854年)2月23日、幕府は利済に対し、江戸下屋敷での蟄居を命じる。また利義に対し、藩政への介入を禁止している。父が幕府の命により江戸で蟄居を命じられて以降に親政を開始したが、藩政再建に関して家老で母方の従弟の楢山佐渡と、同じく家老で極端な改革を進める東政図(中務)が対立するなど、藩政は迷走する。安政2年(1855年)の安政大地震に遭遇して負傷する。慶応4年(1868年)、夏に九条道孝率いる新政府軍の進駐を受けて、これに対し饗応するが、布告には恭順しなかった。同年8月、楢山佐渡が京都から帰国し、また秋田藩が新政府側へ恭順すると、これを攻撃するために奥羽越列藩同盟の盟約に従って出兵した。同年9月、新政府軍に降伏を申し入れ、同年10月9日に降伏を認められた。同年12月7日に新政府から隠居と領地没収を命じられたが、長男の利恭は陸奥国白石13万石に減転封となった。また、楢山佐渡ら3人が切腹となった。
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